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女王の教室

2005年9月27日 23:12 | コメント (0) | トラックバック (0)

これは Diary に何度か書いたものをまとめた文章です。

 女王の教室とは「この物語は悪魔のような鬼教師に小学6年生が戦いを挑んだ1年間の記録」というフレーズで始まる学園ドラマ。冷酷な雰囲気を身にまとい、クラスの係をテストの結果で決めたり、自分の指示を守らない生徒を学校に来なくていいと言ったりという、かなり強烈な先生が登場した。

 なお、私はこの作品をあまり評価していない。自分が好きなものを悪く言われるのは我慢できないという人は、この先の文章を読まないことをおすすめします。

中盤までを見た感想

このドラマ、興味がありちょこちょこと見ているのだが感想は書いていない。というのも、どうせ終盤では「実はいい人なんです。あんな事もこんな事もきちんと意図があったんですよ」といった展開になると思っているからだ。
 女王とやらを掛け値無しの非道の人物として描き、クラス一丸となってそいつを倒して、ラストには「えーんえーん」と女王が間違いを認めて小さくなるという、文字通り悪しき女王を打ち倒す革命物語になるのなら見る価値もあるのだが、残念ながら土曜の21時ではそういった展開も望めないだろう。
 かといって、本当はいい先生であると描くには行動がイキすぎていて、種明かしからさかのぼって、全てに説明をつけるのは難しい。女王の行動にはこんな意図が...と説明したところで、これまで描かれた内容はデメリットが大きすぎるのだ。
 1の事を教えるのに許されるのはせいぜい2や3の痛みである。いざ社会に出れば10の痛みでようやく1を知る「社会勉強だと思って諦めよう」的な出来事は数多くあるかもしれない。しかし、子供達を導く学校という場で、そんなところまで社会と同じルールを適用しようとする人物は「悪人」か、せいぜい「勘違いした人物」であって、善人に描くのはあまりにも無理がある。(当然まだ最終回は迎えていないので、これらは単なる想像)

 この作品が唯一成立する道があるとすれば、悪である女王を倒し「あいつは悪いやつだったけど、あいつのおかげでこんな事やあんな事を知ることができた。どう考えてもやり過ぎだったけど」とクラス一同が悟る結末だと思う。

 なお「この種の話は見飽きたからダメ」という感想を持っているのではない。あくまで種明かしが破綻する事が目に見えているため興味が持てないのだ。(よく描けたベタはむしろ大歓迎だ)
 しかし、上に書いたようにこの作品で描かれたこれまでの内容は、定番の流れで「実はあれは...」で回収できる範囲を超えてしまっている。

 蚊がとまっていた、という理由で頬をビンタされたとしたら「えー」と思いつつ、相手を殴り返そうとまでは思わないが、いきなりデンプシーロールでボコボコにされたとなると、たとえ「頬にタランチュラがいたから」と言われたとしても、相手にジョルトカウンターを打ち込むまで許す気にはなれない。

10話を見ての感想

概ね上に書いた通りの感想。つか、ちょうどマヤ自身が「社会に出たら」という例を挙げていたのでつっこみたかった。
 マヤを確固たる信念を持った人物と描くのは問題無い....というか、そう描くべきだと思うが、これまでの行動も含めて全肯定するってのは無理があるだろう。子供達が「自分の悪いところを認めた上で、自分の気持ちを伝えようとしている(オカマ風の父兄談)」という行動を取ったのだから、マヤもそう描けばいいのに。(まあ、この場合子供たちとマヤの「悪いところ」は多少意味が違うが)

 なんで全部を肯定して、完全無欠の善人でしたって事にしなくちゃいけないんだろ。なんで悪人だと思われてた登場人物の、あの行動もこの行動も、実は正しい事でしたって描かなくちゃいけないんだろ。(その方が盛り上がるから)まあ、まだ最終回を迎えていないので、そうなるとは限らないが。

 ところで「マヤに弱みを見せないように、自分たちの生活を見直そう」と生徒達が考えた行動を、いかにも前向きといった風に描いていたが、それって言い方を変えたら「怒られないよう.....逆に言えば怒られるから.....きちんとする」って事であって結局自主性もクソも無いような。
 小学生が決まり事を守る時に、怒られるからという発想が最初に浮かぶのは普通だが、さんざんイジメ抜いて教えた結果がそれってのはあまりにお粗末だ。それともこれは「マヤのやって来たことってさほど意味ねー」「子供って所詮そんなもん」って事なのだろうか。(そりゃま、他人に「怒られるからやっちゃだめ」と言われて渋々従うよりは遥かにマシではあるが)

最終回およびトータルでの感想

真矢を「完全ないいモン」として描くため、教育委員会と教頭先生を保守的な悪役にして、真矢のふてぶてしさを「正義を貫くヒロイン」として見せる。彼女を慕う生徒たちの様子とその成長ぶりによって、これまでの行動が彼らのためになった事を証明する。
 そして、「ごくせん」のごとく颯爽と真矢が現れるところに始まり(殺陣のヘタっぷりには笑ったが)、ボイコットではなく真面目に授業を受けようとする子供達、真矢のシルエットも加わった卒業制作、さらには生徒達の言葉と「仰げば尊し」の合唱という力技で盛り上げる。

 最終回としての出来は非常に良かったと思う。しかし、ラストシーンを見終わっても、作品トータルとしての感想はやはり上に書いた通りだった。「前半の行動は正当化できる範囲を超えてしまっている」といった事を書いたが、それは別の表現をすると「真矢の行動は、劇中で語られた " 子供たちのため " ではなく、視聴者を驚かせて惹き付けるためのものだった」という事だ。

 この作品は、いわば「なんでそんなメンドくせートリック使うの?」と言いたくなる推理小説のようなものである。トリックとは本来、犯人が疑いを逸らすために使ったり、不可能と思われる状況で犯行を行うために用いられる。しかし出来の悪い推理小説では、それが「読者を騙すため」だけに登場し、犯人がその方法を使う必然性はもちろん、実際に可能かどうかさえも考慮されない。
 フィクションにおいて、いかにうまく観客を騙し、大げさなハッタリをかますかは非常に重要だが、それ以上に大切なのが種明かしの際に筋が通っているかどうかだ。

 試験の結果のみでクラスの係を決めるってのは、まあアリだろう。世の中に出ればそういった競争の連続だし、学校のテストは「努力すれば誰にでも勝つチャンスがある」という意味では、むしろ将来遭遇するであろう理不尽な競争よりも平等であるかもしれない。
 ただ、そのどこに真矢が語った「勉強とは知らない事を理解するため」という理念があるのだろう。最終的な勉強の意味は未知を知にするためだが、とりあえずはその力の優劣で有利・不利が決まる世の中の仕組みを知れって?
 狡猾な嘘で疑心暗鬼に陥らせて、もしくは脅迫同然の方法を用いて、友人を裏切らせようとする人間が世の中にはいる事を知れって?
 仮にそれを実体験として知ったところで、圧倒的なデメリットに比べて何が得られるのだろう。
 そして、そんな友人に裏切られて絶望的に孤立するような事もあると、さらにそうやって友人を裏切ったら最終的に手痛いしっぺ返しを食らう事があると知れって?
 それは強烈な痛みをもって体験しないと知る事ができないのだろうか。

 種明かしされてから振り返ったとき、これらの事は、フィクションとして見るなら単なる演出でしかなく、劇中に入り込んで見るなら「真矢先生は立派な信念を持っていたかもしれないが、危険な確信犯だった」って事だと思う。「あいつのおかげでこんな事やあんな事を知ることができた。どう考えてもやり過ぎだったけど」か、せめて「やり方に問題はあったが、生徒の事を真剣に考えている先生だった」とった程度で締めれば良かったのに。

危険な確信犯を主役にした出来の悪い推理小説。これがオレにとっての女王の教室だ。

確信犯:それが正しいと信じて疑わず犯罪を犯す人。「知っててやっただろ」的に使われる「確信犯」は誤用。

 なお、上のような間違いと同様、確信犯という言葉そのものに「政治的・宗教的」といった意味が含まれているという誤解も多いが、重要なのは「正しいと信じている(何らかの事柄を確信している)」という部分であり、その内容が政治的・宗教的であるかどうかは関係ない。
 多くの辞典に「政治犯・思想犯・国事犯などに...」と書かれているのは、単に、政治犯・思想犯の多くが確信犯だからに過ぎず、「頭から青汁をかけたら風邪が治る」なんていう政治に全く関係ない事でも、それを心の底から信じて道行く他人に青汁をかけていれば、その人は確信犯になる。

 確信犯は、ドイツの法律用語「Uberzeugungsverbrechen」の直訳で、単純に「Uberzeugungs:確信 verbrechen:犯罪」という2つの言葉が組み合わされているだけである。(U の上にはウムラウト記号がつく)

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